いつまでも娘を思う母

母は連絡もなしに突然やって来ます。いつも朝きゅうにやってきて、私を連れ出します。もともと出不精のわたしなので、用事がないとめったに出かけません。そんな私を心配し、げんかんをかってに開けて「来たよー」と言って入ってきます。そして「何か食べるものないなら、行くよー」と言って、近くのショッピングモールへ。そして母のおごりで昼食を食べさせてもらいます。もともとあまり食に興味がないので、一人だと昼食を抜くこともしょっちゅうな私です。きっと母からすると、とても心配な困った娘なんだと思います。だからたまにきて、顔を見て、生存確認して昼食を食べさせる。まるで小さな子供のような私です。母親にとってはいくつになっても子供は子供。きっと私がおばあちゃんになっても、母は来てくれるのかもしれません。でもそんなときは私が逆に顔を出さないといけないといつも思っています。いつも私のことを考え、心配してくれる母に感謝です。ネオわらびはだとわらびはだの違い

家中あま~い香

バレンタインは過ぎたけれど休日にチョコ作りを開始しました。家中にあま~い香が小学6年の娘が友達にチョコを手作りで渡したいと言うので早速チョコと生クリームなどの材料を買いに行き2人でチョコ作りを始めました。板チョコを刻んでいた娘が途中で疲れたと言ってしまったので私が刻みそのチョコを溶かすのは娘に頼み何とか完成させたけれど殆ど私が手伝ったたような物で娘はチョッと作業しては疲れた~と言って直ぐ他の事に気が散るようで中々捗らず困ったものです。今までは買って来たチョコを友達と交換していたけれど今回は友達もクッキーを作ったり手作りに挑戦したようで娘もチョコを手作りしたいと作り出したけど殆ど私が手伝って出来たチョコを嬉しそうに包装して友達1人、1人の名前と数を確認して喜んでいました。一生懸命手作りに挑戦するのは良いのですが出来たら後片付けもやって欲しかったです。この日のチョコ作りで家中チョコレートのあま~い香が充満しました。http://www.senshu-college.jp/

中国などについて勉強した

勉強をしました。湾岸戦争後の1993年になって、イスラエルとパレスチナ解放機構がパレスチナ暫定自治協定を結び、問題の解決に向けて大きく踏み出しました。その後もアラブ側の武装組織とイスラエルとの対立は続いたので、2003年の4月に新たな和平案が提示されました。しかし、2004年の4月にイスラエルがアラブ側の武装組織の指導者を殺害するなど、和平への道のりは依然険しいです。中国では1980年代になると、とう小平を中心として対外開放政策など経済の改革が積極的にすすめられました。しかし、こうした開放政策は民主化を要求する運動を刺激し、1989年の6月に天安門事件がおこりました。民主化の要求はおさえられ趙紫陽総書記は失脚し、かわって江沢民が登場しました。江沢民は、1993年から国家主席も兼任して開放政策を継続し「社会主義市場経済」をかかげ、2002年には胡錦濤が指導者となりました。この間、中国はめざましい経済成長をとげましたが、都市部と農村部の経済格差も広がりました。子供専用のカイテキオリゴ

原敬などについて勉強しました

勉強をしました。できるだけ民衆の利益と幸福をはかる政治を実現するため、普通選挙にもとづく政党政治の実現を求めました。こうしたなかで民衆の政治への関心も高まり、政党の力はいちだんと強まりました。この風潮を「大正デモクラシー」とよんでいます。1918年の米騒動の後、世論を納得させるためにも元老は立憲政友会総裁原敬を首相に推薦しました。原敬は陸・海軍大臣と外務大臣を除く閣僚をすべて立憲政友会の党員から選び、本格的な政党内閣を組織しました。衆議院に議席を持つはじめての首相である原敬は平民宰相とよばれ、国民から歓迎されました。そして産業の振興、軍備拡張、高等教育機関の拡充などの積極政策を推進しました。また貴族院勢力を牽制したり、植民地支配制度を緩和したり外交面では欧米と協調した歩調をとるなどの政策を実行しました。しかし、原敬は社会政策や普通選挙の実施には慎重で選挙法を改正して納税資格を広げて有権者の数を増やすにとどまりました。セリジエ コラゲナイト: ハルメク通販サイト